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三宅雪嶺というひと

2004年09月28日21:30

仕事でここ数日、三宅雪嶺という人のことをいろいろ調べていた。

生まれは万延元年(1860年)というから、桜田門外の変のあった年だ。幕府の大老という国家元首が不逞浪士に待ち伏せされ惨殺されたというこの驚天動地の事件は、以後の侮幕の風をいよいよ盛んにしたことで、歴史的には維新回天の時を幕開ける役割を担った。

そして雪嶺が亡くなったのは昭和20年(1945年)。太平洋戦争に敗戦したその報を聞き、それを待っていたかのように永眠した。86歳の雪嶺翁は起立して玉音放送を聞き、一言つぶやいたという。

「軍人がつまらぬことをしたものだ」

維新の胎動とともに生まれ、明治を生き、藩閥政府を常に言論をもって攻撃した。その維新、藩閥政府がたどり着いた帰結である太平洋戦争の大敗を見届けて生涯を終えたというわけだ。

雪嶺の難解な文章は、現代の読者を拒む。しかしそれをこらえて読み進めると、現代にもなお十分に通用する力強い光芒があることに気づかされる。雑誌「日本人」「日本及日本人」はいわゆる「国粋主義」を喧伝したが、その「国粋主義」とは、偏狭なナショナリズムでも侵略的帝国主義でもなかった。確固たる文明論に基づき、東洋人、日本人が、凛とした気概とプライドを持って西洋文明と対峙すべきだという至極まっとうな主張に過ぎず、極端な欧化政策への批判であり、脱亜入欧の風へのアンチテーゼでもあった。

つまり終生、思想的には、アジアへの侵略に反対し続けていた。にも関わらず「国粋主義」への先入観から戦争協力者と見なす評価もある。

雪嶺に私淑していた娘婿の中野正剛は、昭和18年(1943年)に、東条英機内閣の転覆を企てたとして投獄され、釈放後に自らの命を絶っている。そういう男の義父であり、思想的には師匠筋に当たる雪嶺という反・帝国主義者が、戦時下、中野が自刃した同じ年に文化勲章を受けている。この皮肉とアンビバレントが、雪嶺を理解しづらいものにしている。

結局、三宅雪嶺というひとはどういうひとだったのか。

それを判断するには、雪嶺の書いた文章は数が多すぎるし、ジャンルも多岐に渡り過ぎている。読むほかに雪嶺を理解するすべはないが、なかなかその時間もない。難解な「同時代史」を読破するのはとうに諦めたが、小品から少しずつ読んでいる。

幕末から維新、文明開化、不平士族の反乱、民権運動、社会運動などを分かりやすい文章で通説した「明治思想少史」は、雪嶺の著作の中では抜群に分かりやすい。この著作を読みながら、現代にも通じる明確な批判精神を伴った歴史観を垣間見ると、明治を生きた気骨のジャーナリストとしての雪嶺の姿が生き生きと蘇る。

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コメント

どもども。香さんご無沙汰。ていうか早いな。

あいやすんません。断りもなく(笑。ま、適当に更新しますので適当に遊びにきてくださいな。忙しいトキほどこういうことをしたくなる私でした

by 蛇足(2004年09月28日 23:22)

いつのまにこんなブログを!
しかも日本近代思想史を専攻するこの私を差し置いて雪嶺について書くなんて。…というのは冗談ですが、私も雪嶺の文章は苦手です。徳富蘇峰の方がまだ読みやすいかも。

by 横山香(2004年09月28日 23:03)

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