ピースサインの意味
2004年10月09日22:22
TBS「ニュース23」の15周年企画で、坂本龍一(52)、「Mr.Children」桜井和寿(34)らのコラボレーションが実現した。坂本の曲「WAR AND PEACE」の日本語詩を、視聴者から募集して作成。桜井や作家の吉本ばななさん(40)もフレーズを提供し、反戦歌が仕上がった。4日放送の同番組で披露される。
ヤフーニュース経由、スポーツニッポンより引用。どうせ観ても反感しか覚えないのだろうな、と思っていたし、「タガタメ」に対して感じた反感を書いたときに、このサイトの前身に当たるサイトに寄せられた清く正しいご意見の数々に反論する気力が失せたことも思い出したのだが、やっぱり観て、やっぱり書いてしまう因果なわたくし。
桜井が寄せた詩は以下のとおり。
アルバムの中 ピースサインで写るたくさんの僕がいる
あぁ もっと誠実に もっと切実に ピースサインを刻んでおけばよかった
もっと誠実に もっと切実に これからはピースサインを刻もう
何から書けばいいのか、戸惑ってしまうような詩(歌詞?)だ。この詩を複写しながら、やっぱりこれについて書くべきではなかったのではないか、という後悔の念が沸き起こってくる。
気を取り直して。
ピースサインである。この由来には多説あるが、有力なのは「第二次世界大戦中、英国のチャーチル首相が報道陣に対して示したことで広まった」というもの(WikiPediaもご参考)。
やや長いが、「育毛剤モニター日記 (`○´)┛シュっ」のエントリーでまとめられていたので引用させていただく。
そもそもあのポーズは第二次世界大戦の時に英国首相のチャーチルがやった、「Victory(勝利)サイン」略して「Vサイン」なのです。「今日も我々はドイツや日本を殺しまくって頑張った。万歳!」って意味です。戦争の終わりそうな時期のある日、ある記者がVサインを掲げるチャーチルに向かって、「勝利のVサインですね」と尋ねると、「いや、平和のサインだ」と答えました。記者は意味が分からなくて、どんな意味なのか質問するとチャーチルは、「世界の平和は、この2本の広島、長崎によってもたされる」と…。
そもそも、平和と訳される「Peace」って語源を辿ると、ラテン語の「Pax」。「Pax Romana(ローマの平和)」というものです。
この本当の意味は、逆らう奴は抹殺し、安全な広い土地が出来、もはや歯向う愚か者など居やしない状態の事を言います。
つまり、平和の本当の意味は殺戮の痕の静けさって事です。それが安心と言うことです。勝利者にとってそれは都合の良い事この上無いって事ですが…。
これを引用したのは、だからピースサインをするな、と言いたかったからではない。桜井の詩に対して、戦争の勝利の象徴を持ち出して「もっと誠実に もっと切実に ピースサインを刻んでおけばよかった」とは片腹痛い、と批判したかったからでもない。
こうして広まった中指と人差し指を立てるサインは、1960年代以降、世界的な“政治の季節”のなかで、反戦運動の象徴として、その意味を変化させていく。桜井が詩の中で訴えたい「ピースサイン」は、1960年代以降の、そして1980年代までの意味での「ピースサイン」だろう。
さらに冷戦構造が崩壊して“政治の季節”を終えた1990年代以降、「ピースサイン」から「勝利」の意味も、「反戦」の意味も失われていった。その時代に生きる「アルバムの中 ピースサインで写るたくさんの僕」が、「誠実」でも「切実」でもないのはやむをえない。
私が言いたいのは、指を二本立てるという、単なる指遊びのような行為に対して、わずか50年少々の短い時間のなかでも過剰な意味づけがなされてきて、その意味するところが変化している、という事実だ。
指で象形し、抽象概念を象徴させるなどということ自体、記号的といえばあまりに記号的だが、なればこそ記号論的にいうならば、記号のインタフェース(指の形=シニフィアン)と、その意味するところ(勝利・反戦・平和=シニフィエ)の関係は恣意的なのだ。
カメラの前に、無邪気にピースサインを向ける子供たちにとってピースサインは、「楽しい」だとか「目立ちたい」とか、そういう新しいシニフィエを獲得している。
その子供たちに「それはもともと平和・反戦を意味するものだ。もっと切実に刻むべきだ」と批判するとしたら、「そのサインはもともと戦争の勝利を意味するものだ。反戦運動と矛盾する」という批判も受けねばならない。
指を二本立てるという「スタイル」に拘泥するあたり、時代に取り残された一部左翼活動家たちの言動を思わせて、桜井ファンを自認する私など悲しくなってしまう。
「ピースサイン」に反戦・平和の意味を取り戻すということは、1960・70年代に時計の針を戻すということだ。その時代にしがみついでいる、“政治の季節”に敗れた坂本龍一、筑紫哲也たちに追従して桜井はいったいどうするというのか。
いまの子供たちが、カメラに向かって無邪気に「ピースサイン」を送る。その切実さも、誠実さもないが、楽しげで明るい笑顔を大人たちがどう守るかの方が、「ピースサイン」という「スタイル」を守ることよりももっと重要なはずだ。個人的には嫌いだが、「タガタメ」とはそういう歌ではなかったか。今回の救いようのない詩よりも、「タガタメ」の方がまだ遥かに「まし」だ。
私が(勝手に)望む方向とは逆に、桜井は進んでいく。
追記。コメントに対するレスポンスは「ピースサインの意味(2)」に書いた。
トラックバック
trackbackURL:








コメント
批判してるとは言ってないんじゃないですか?
『批判するとしたら』って言ってますよ?
ファンだからって噛み付くのやめましょうよ。
現代を生きる生身の人間たちに影響を与えようとする努力より、時代遅れの言葉遣いに固執することを選び、自己満足に満ちた歌詞になってしまっているということでしょうか。
厳しいようですが、ただでさえ彼は求心力を失っています。この批判は免れ得ませんね。
うわわわ!もう蛇足さんが記事を更新していました!いや、大変失礼しました(笑。でも蛇足さんの反論(?)も私の考えとほぼ同じだったんで、なんか嬉しかったです(笑
サイト(というか蛇足さん)の復活、うれしい限りです。前のサイトでは蛇足さんの「タガタメ」批判に対して疑問を投げさせていただきまして、丁寧な回答記事を頂きました。今回もひょっとしたら蛇足さんが回答されるかもしれませんけど、私も横から口を挟みます。
確かに桜井さんの詩は、他人に対して強要してはいません。文意としては。でもあの詩を読んだ人は、桜井さんの呼びかけのように感じるんじゃないでしょうか。それは「ミスチルの桜井さん」というキャラクターの影響力がそれほど大きいからです。その意味で、単に「自省の詩」とは私は読めませんでした。
加えて、桜井さんには「ピースサイン」とかいう「記号」とか「スタイル」(蛇足さんの言葉そのままですが)にこだわらずに、もっと桜井流のやり方で通してほしいという思いがあります。だって、指の形なんてどーでもいいいじゃん(笑、みたいな。
なんだかAAAの悪夢再来を思わせて、薄ら気味悪いというのが、率直な感想です。
私も上の方と同じ意見です。
今回の桜井さんの詩を読んで、なぜ池田さんは、これが他人を批判しているように解釈されるのか、不思議でなりません。
これは、彼の自省の詩でしょう。そうとしか読み取れません。
今回の詩は、「ピースサイン」というものを、作者の心情を表現するための道具として持ち出してしまったことで、桜井さんはある種の失敗をしてしまったとは思いますが、だからといって、この詩を書くに及んだ作者の心情までが否定されるべきではないと私は考えます。
今まで「平和」というものに対してそれほど切実に向き合ってこなかった自分への反省と、これからはもっと誠実に、切実に、「平和」について取り組んでいこうという決意が、この詩の主題でしょう。その気持ちを、日常よく使われる「ピースサイン」という言葉を借りて表現しただけではないのでしょうか。
少なくとも私はそう考えますので、桜井さんが「指を二本立てるという『スタイル』に拘泥」している、という池田さんのご批判も、失礼ながら、少し見当違いではないかという気がいたします。
>その子供たちに「それはもともと平和・反戦を意味するものだ。もっと切実に刻むべきだ」と批判するとしたら、「そのサインはもともと戦争の勝利を意味するものだ。反戦運動と矛盾する」という批判も受けねばならない。
って書いてありますけど、別に批判はしてないですよね?桜井さんがご自身でそう考えた、というだけで、子供たちにまで強要してはないんじゃないですか?
待ってました、の記事更新ですね!
私もあの詩には違和感を覚えました。「シフクノオト」「Sign」のレビューもお待ちしています!
最近は蛇足さんのレビューを読むまで、どう聴くべきか、何かふわふわしたままな感じなんです(笑。