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再読「翔ぶが如く」

2004年10月01日22:52

翔ぶが如く〈1〉何を思ったのか自分でもよく分からないのだが、上野駅構内の書店で通勤時に読む本を物色していた私は、「翔ぶが如く」全巻をまとめて衝動的に購入してしまった。以前、やはり文庫で全巻揃えて買ったのだが、友人に貸したまま返ってきていない。それをなぜだが急に、読みたくなった。

司馬遼太郎の小説は、小説ではない、という人がいる。

一面ではおそらく正しい。「余談ながら」「ついでながら」「話がやや逸れるが」など断った上で、作者が顔を出し、時代背景やこぼれ話、取材余話を語る。その挿話は歴史を解説・解釈する姿勢に近く、それをもって一部評論家は「これは物語ではない。小説ではない。なぜならば舞台裏まで見えてしまうからだ」と批判する。

「翔ぶが如く」もまたその類の小説だ。明治初年から西南戦争にいたる太政官政府草創期に活躍した有名無名の多彩な人物が登場し、その人物の生まれや背景などの挿話がしばしば語られる。

いやむしろ、小説全体が挿話の集合という印象さえ受ける。新たな登場人物が現れると、時制がいつも遡り、その人物の生い立ちや思想などが語られる。そういった挿話によって物語内の時間が繰り返し逆流しながらも、物語全体としてはじりじりと時計の針を進めていく。

主人公が不在である、というのがその主たる理由だろう。

西郷隆盛が主人公のようでもあるし、大久保利通のようでもある。ただし「竜馬がいく」ほどに、主人公が際立ってはいない。特定の主人公はなく、あえて言えば「時代」そのものを主人公とした群像劇だ。

坂の上の雲 (1)その点「坂の上の雲」にも似ている。司馬遼太郎の書く、この種の小説は、確かに、言うところの「小説」とは言い難い側面を持っている。

それでいながら、糞下らぬ小説よりも物語的であるのはどういったわけだろう。

構成としてあまりに物語的でない。決して読みやすくもない。加えて、司馬史観の偏向性、政治性について批判するのはたやすい。が、そういうモノがなぜにこれほどに読まれ、愛されるのか。いやその書き方は客観的に過ぎる。なぜに私は、司馬遼太郎の小説ともいえぬ小説にこんなに惹かれるのか。

分からぬままだ。分からぬままに、またまとめ買いしてしまった。読み始めると止まらない。おそらくまた睡眠時間を削って読み進めてしまうだろう。

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