ゆらゆらばあさん
2004年11月14日23:08
また、“ゆらゆらばあさん”がいる――。
神奈川県Y駅のT線ホームで、毎朝、通勤客で混雑する乗客を電車に詰め込むアルバイトを続ける私立大学生のN君(21歳)が、2004年10月X日の午前8時20分過ぎ、T線上りホームでその老婆を見つけた時の感想というのは「またか」という程度であった。
アルバイト仲間の間で「ゆらゆらばあさん」という渾名で呼ばれる老婆は、その日も、何色かのどぎつい色の油絵の具をぐねぐねと混ぜ合わせたような奇抜で派手なデザインのワンピースを着て、真っ赤な傘を持ち、真っ赤なハイヒールを履いて、ホームの端でゆらゆらと揺れていた。年の程は、厚化粧のせいでよく分からないが、60歳は優に超えているようだ。
体は線路の方を向いている。ゆっくりと体を反らせたかと思うと、その反動を利用するかのように、やにわに体を前に倒す。線路を覗き込むように身を乗り出すと、ぐっと身を固めて止まり、体を起こし、そのまままた身を反らせる。これを繰り返している様が「ゆらゆら」と揺れて見えるというのが、渾名の由来だ。
線路に飛び込もうと身を乗り出して、その度に思い留まっているようにも見える。
N君がこの老婆を最初に見たのは、アルバイトを始めて間もない去年の暮れだった。N君は老婆のゆらゆらと揺れる動きに「すわ自殺志願者か」と慌て、鉄道会社の社員を呼びに走った。
「ああ、あの婆さんね。頭が少し弱いんだよ」。駅員は事もなげに言った。「大丈夫。ああ見えて、絶対に飛び込まないから」。
列車の入線を告げるアナウンスがホームに流れる。動転するN君は駅員に「いや、あれは危ないですよ。緊急信号を出してください」と詰め寄ったが「まあ見てろって」。
数十秒後、果たして、ゆらゆらと揺れる老婆の前を轟音とともに列車が滑り込んだ。
それからほぼ毎朝、N君はこの老婆を見る。
ホームの端には、視覚障害者のために凹凸が付けられた小さなパネルが並んで黄色いラインを作っている。そこに片足を乗せ、身をゆらゆらと揺らしているのだから誰が見ても危険だ。にも関わらず、この老婆の横に並ぶ通勤客たちは一瞥もくれないか、怪訝そうに見るばかりで、誰も声をかけようともしない。
N君がなぜその日に限って老婆に声をかけようと思ったのか。N君自身振り返ってもよく分からない、という。10か月もの間毎朝、危ないとは思いながらも、老婆のゆらゆらとした動きを黙って見ていたN君は、なぜかその日、つまり2004年10月X日に限って老婆に声をかけようと決めた。
電車の接近を知らせるアナウンスがホームに響く。老婆に近づこうと、通勤客たちで溢れ返るホームをその人波を掻き分けるように進む。ゆらゆらと動く老婆まで声が届きそうなところまで足を進めると、N君は声をかけた。
「お客様、お客様」
老婆は何も聞こえないように、前後に上半身を揺らしている。「危ないですから、さがってください」。それでも老婆はその動きをやめようとしない。驚くほど大きな警笛を鳴らして電車が近づいてくる。
N君はその時点から数十秒の記憶が今でも戻らない。
最後に覚えているのは、オレンジと緑に塗り分けられた、まるで人の顔のような電車の先頭が、驚くほどの速度で近づいてきている映像だ。その後のことは、現場にたまたま居合わせた数人の目撃者たちの証言を元に考えるしかない。
“ゆらゆらばあさん”の右隣でT駅行きの電車を待っていた女子大生のHさん(21歳)は、駅員が何か声をかけながら近づいてくるのに気づいて、読んでいた文庫本から顔を上げた。その駅員がアルバイトのN君だった。N君の声はHさんにはまったく聞き取れなかった。雑踏の騒がしさに加え、向かい側のホームに電車が入線して来ていたからだ。
総合商社に勤めるOさん(32歳)は、老婆の奇妙な動きに気づきながらも、それを制止しようとは思わなかった。その老婆を見かけるのは何回目かであったからだ。そんなことよりも、早足で前を通り過ぎようとする駅員が、自分の鞄に足をぶつけて行きながら、一言も謝らなかったことに腹を立てていた。言うまでもないが、その駅員がN君だった。
そこからの二人の証言はほぼ、一致している。声をかけても気づかないのか聞こえていないのか、ゆらゆらという動きをやめようとしない老婆にN君が近づき、彼女の服の袖口を引っ張って「お客様、危ないですから」と言いかけたその瞬間。老婆は身を反らせた反動で体をホームから線路へと投げたのだ。
まるで声をかけられるのを、制止されるのを待っていたかのように、傘を持ったまま線路に身を躍らせた老婆を、滑り込んでキャッチするようなタイミングで電車がはねた。それを見ていた二人は、異句同音に、老婆はその時笑っていたと証言している。
N君はその場に座り込んでしまった。
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コメント
あららー。このお話、ホラーだったんですかっ!
私はてっきり、ヒューマン・ドキュメント仕立てのお話だと思ってしまいました!
底知れぬ孤独を抱えた老女。線路に飛び込むマネをしても、誰一人、関心も示してくれない。
彼女はその孤独ゆえに、自らの命を絶とうとしているのだが、その孤独の深さゆえに、どうしても、この世との繋がりを断ち切れないでいる。だって、仮に彼女が電車に飛び込んだとしても、それを見届けてくれる人は、誰もいないのだ。
そこへある日、初めて彼女を制止してくれる若者が現れた。老女はようやく安心して、あの世へと旅立つ・・・・。みたいなっ。
昔、「口裂け女」が世の中を賑わしていたころ、その架空のホラー話を信じ込み、口裂け女に対して並々ならぬ同情を示したのが私の父でした。そんな父の姿を見て、心底バカにした私ですが・・・・・。
うー。これはもう血筋ですね。
作り上げた物語に、見事ビビらされました。
最近、記事関連のコメントが続いていたことも伏線となって、小泉八雲チックな世界に運ばれてしまいました。
こんな狂気の物語を、見事に構築してみせる池田さんの立ち位置は、「あっち側」でも「こっち側」でもない気がしてきました。
でも間違いなく「書く側」なんでしょうね。
池田さんとゆらゆらばあさんの、今後益々の御健勝を心よりお祈りいたします。
ひぃぃぃぃいぃぃいいいl(;;)/
めちゃめちゃ怖いですよ!!
実話だと思ったらフィクションだったのですね。。。
・・・それでも怖い。
>ストッキングちゃん
ちょっとおかしなヒトを見るときに思うのは、自分も、何かの拍子で“あっち側”に行ってしまえるんだろうな、という恐怖感です。自分の場合。
>やくもさん
ご無沙汰しております
すんません。先日、横浜駅でゆらゆら揺れている婆さんを見て考えた妄想をデッチアゲた代物です。婆さんはつまり、実在します。多分、生きてます(笑 怖がっていただけて幸いです。
ええと、おひさしぶりです。
ええと、これ、実話なんですか?
蛇足さんのフィクションだとしたら、すげえ。怖い。
ホラーみたい。
自分の日常と隣り合わせで狂気が潜んでいる・・。
怖いです。