大きく深い愛
2004年11月26日23:50
優しい歌さんのコメントにお答えする。最初に断るが、こういう形而上学的な説教は大嫌いだ。
池田さんの文章を読んでいて愛を感じられないです。桜井が言う「逆の発想」についてどう思われていますか?長崎の事件と関連して考えたとしても逆の発想でいけば加害者、被害者の境界はあいまいです。
加害者、被害者の境界を、あの長崎の事件を考えた上でどう「あいまい」にできるのか、脳みそのヒューズが飛んでるとしか思えないその「逆の発想」とやらをちゃんと書いてほしい。あなたが
私も被害者、加害者について考えている本当の意見を披露するだけの勇気はありません。
という態度を取り続ける限り、あなたの書いていることは空虚だし、議論にもならない。相手に自分の考えを伝えたい、分かってもらいたい、あるいは相手の考えを理解したい、という“思いやり”の上に、言葉による議論は成り立っているのに、それを放棄して
真理に近づいた人にしてみれば自明のことでも、そのレベルに達していない人から見れば理解できない、だから自分の立場を正当化するために批判し断罪するんですよね。
と自分だけが高みに立っているかのように装うような“思いやり”のカケラもない人間に「愛」について語ってほしくない。
池田さんはイデアの洞窟の中にいるんですよ、影しかみることができていない。連鎖というものの業の深さや恐ろしさを本当にはわかっておられないんだなと感じました。
あなたの言う「イデアの洞窟」の意味が正直、分かりかねるけれど、「連鎖というものの業の深さや恐ろしさ」が分かったとして、それで被害者と加害者がどうして「あいまい」になるのかが分からない、と私は再三書いている。
輪廻転生、業、原罪。そんな言葉を弄することは簡単だ。生まれながらにしての罪人はいない。それはそうだろう。誰も魂までは裁けない。それもあるいはそうかもしれない。しかし、その手の言葉で救われるのは常に加害者ではないか。両親に愛され、好きな本を読み、好きなものを食べ、悲しいこともあったかもしれないがちゃんと小さな体で生きてきた被害者や、そのかけがえのない被害者の両親たちを前に、そんな言葉は空虚に過ぎる。
加害者を裁くことは必要です。でもそういうレベルで書かれた曲じゃないんです。
どういうレベルか書いてほしい。
「愛」という言葉について定義するところから始めないといけませんね、世間の多くの人が考えている「愛」の定義は私に言わせれば「愛」ではない。桜井が歌っている愛はとても大きくて深いものです。「Sign」を聞けばわかるでしょ?
「Sign」こそ、あなたが弄するような言葉の上でしか成り立たない「愛」でなく、隣にいるリアルな存在との時間を慈しむような、それが「愛」という言葉でなくても構わないような温かで確かな感情を歌っている。「Sign」を聞いて「愛」の定義から始める、というあなたこそ「Sign」をちゃんと聴けていないと私は思う。
人類を愛する。隣人を愛する。あるいは一度も会ったことのない加害者の少年を愛する――。とても立派だ。立派だがしかし、どこかうそ臭い。「人類」なんて人にも、「隣人」なんて人にもお目にかかったことはない。そんな人たちはどこにもいないのだ。そんな人を「愛する」というのは、もう言語ゲームでしかあり得ない。
被害者、加害者、そして子供の行動の根源になっている動機が何かをもっと知ってください。全部「愛が欲しい」と強く求めているんです。
前の記事でも書いたが、もう一度繰り返そう。動機はいろいろあるだろう。愛されないことで、何かを壊してしまう人もいるだろう。でも、私もあなたも、世の中の多くの人は「愛が欲しい」と渇望しながらも、泣きたいような気持ちと戦いながらも、人の命を奪おうとはせずに生きている。失いたくないものを守ろうと必死だから。
終始無言であるがゆえに存在を忘れがちな、そんなサイレント・マジョリティーへの“思いやり”を持てない人間に、哲学書か宗教書で読み齧ったような博愛精神を語られると反吐が出る。
あなたこそもう一度「Sign」を聴くべきだ。その偉そうな、悟ったようなニヒルな仮面を取ってから。
トラックバック
trackbackURL:








コメント
Signでは、大人の「僕」が、「君」との未来像を描ききれている。
1つ1つ積み重ねていく苦労と困難を放棄することなく、二人の未来を模索していく、いい歌詞だと思います。
一方、「タガタメ」ですが。
>この世界に潜む 怒りや悲しみに あと何度出会うだろう
このような視点は、親としての危機感、または焦燥感の現れだと思うのですが、私自身が親の世代から心配されてきたように、その親の世代も、上の世代から嘆かれてきたに違いありません。
まるで、問題があるのは常に次の世代だと、人は思いこんでいるようにも見えます。
そこには、本来自身が乗り越えるべき不安や閉塞感が、別のモノ(子供達の未来を憂う)へとすり替えられていくような違和感があります。
抱きしめて欲しいのは、「子供ら」でもなく、「子供時代の私」でもない。
「愛を渇望しているのは、今の自分なのだ」と、私だったら正直に答えましょう。
そして大人が先ず、自分たちの未来像を描いて、子供達に指し示していくことが、「誰がため」の答えなんだろうと思います。
今回ばかりは、優しい歌さんには悪いですが、池田さんに全面賛同です
今回の記事、あくまで蛇足さんが今まで出来なかった「タガタメ論争」に送られたコメントに対する返信をしているものと理解しばっさりやられるのをストッキングちゃんさん 同様待っておりました。
がこの記事の優しい歌さんのコメントに「Sign」について納得いかない解釈の仕方だったので横槍させていただきます。優しい歌さんには不快な思いをさせてしまうかもしれませんがどうぞ目をつぶって一つの意見だと思っていただきたい。お願いします。
「Sign」の詠う「愛」は蛇足さんの言うように
>隣にいるリアルな存在との時間を慈しむような、それが「愛」という言葉でなくても構わないような温かで確かな感情を歌っている。
というような曲です。
僕もまったく同じ意見です。
「Sign」という曲は某ドラマで流れたときMr.Childrenらしからぬ詩だなと思いました。それはあまりに幼稚でドラマにあわせたような詩だったからです。しかしCDで通して聴いたときこの曲の本当の意味が理解できました。それはドラマではあまり使われない二番以降の詩、特に
♪緑道の木漏れ日が~
ってところから終わるまでのところで理解できました。そしてその瞬間この曲が好きになりました。はっきりいってその某ドラマを見る世代の人間じゃ分からないような深い意味を持っていると思います。もちろん僕だってまだまだ若輩者ですから本当の意味ではまだまだまったく理解できていないと思います。それでも隣にいてくれる人に対する暖かな気持ちを歌うこの歌を好きになりました。(ぜひ詩を見直してくださいね(^^))
「愛」について定義するなんて、「Sign」「タガタメ」からこの結論を持ってくるあなたは凄いと思う。この二曲はただ言葉として表現として「愛」としているだけでその「愛」という言葉の中にいくつもの意味を含ませている。例とすれば「タガタメ」の「愛すこと以外にない」というフレーズ。これは決してあなたが言うように子供が愛して欲しいと思っているから愛するわけではない。今の子供のみんながみんな「愛して欲しいから」犯罪をするわけではない。興味本位で犯罪するやつもいる。けれども最終的に普通に子供を育てている親ならば子供を「嫌う」ことが出来ない。だから「愛」す以外にない。それは、「Sign」のそれとはまったく違うベクトルの感情だ。定義するなんて無理なのではないだろうか?
最後に桜井さんが「真理に近づいた人」だとは僕には思えない。かといってあなたが「真理に近づいた人」だと言っても不思議な方だなとしか思えない。大体真理ってなんでしょうか??「タガタメ」はどう聴いても僕には一人の大人が言いたいように言ってる曲にしか聴こえない。真理とかそんな大それたものではない。だからこそ僕は「タガタメ」が好きなのです。