定年退職の日(1)
2005年01月19日17:44
午後九時過ぎ。自宅まで続く長く急峻な坂道を、神田昌男(仮名)は60回目の誕生日を迎えたその日も、いつもと変わらぬ足取りで登った。
コンクリート打ちの路面には、滑り止め防止のために無数の円が刻まれている。街灯に照らされてその円の一つひとつが半円状の影をなしているのが、まるで自分をあざ笑ういくつもの目のように思えるのも、いつも通りといえばいつも通りのことだ。
感慨も感傷もない。数年前から「定年退職者の心得」なる研修を受けさせられて来たおかげで、心の準備はとうに出来ていた。むしろ、研修が繰り返されるごとに「その日」を待ちわびる気持ちが高まっていた。だから、今日という日を迎えても「ようやく来たか」というのが正直な気持ちだった。
「今日は、いろいろ荷物があるでしょう」と、出掛けの朝、妻が持たせてくれた小旅行用の鞄は右手に軽い。書類を整理したり処分したりし、文房具を総務部に返したら、神田の机には何も残らなかった。手ぶらで出社しても事足りただろう。いつもの通勤用鞄より大きく、いつもより中身の少ないそれはいかにも軽かった。
「今日くらいは、遅くなってもいいのよ。後輩に奢ってあげて」。妻から手渡された3万円は今も財布の中にある。「今日はバタバタだから、時間がある時にゆっくり送別会をやりましょう」。後輩たちはそう言ってくれたが、その気遣いが神田にはむしろ苦痛だった。
坂道を登り切る前に、神田は小さな路地を右手に入って小さな公園に向かった。公園脇にある自動販売機で缶コーヒーを買って、時折瞬くように消える薄暗い街灯がかろうじて照らすベンチに腰掛けた。時間をつぶしてから帰宅しようと思った。
3万円を軍資金にすれば、都心の繁華街で、もっと楽しく時間を潰すこともできる。しかし神田は、一人でネオン街に足を踏み入れても、どこで、どう金を使えばいいのか皆目見当がつかないのだ。
温かなコーヒーを胃の中に送り込む。街灯の明かりが自分の息で白く反射して、次の瞬間に消えていく。煙草の煙のようで面白く、何度か息を吸っては吐いた。
「おじさん、何してるの?」
子供じみた真似をしていたところ、虚を突かれた神田は、その声に驚いて振り向いた。鬱蒼と茂る植木の手前に立つ高校か中学の制服姿をしたその少女の姿は、青みがかった街灯の明かりに照らされていたせいか、幽霊みたいに現実感がないように見えた。
この文章は、現実の話を元にしたフィクションです。
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コメント
は、やはく更新を…!!読みたい~
いったいどういうベクトルを向いたお話かもわからない…。
うー、気になる…。
それも計算のうちですか。泣。
つづき!つづき!
ほんといつ読んでも引き込まれるなぁ・・