定年退職の日(2)
2005年03月22日16:11
(「定年退職の日(1)」の続き)
神田はそれに答えられずに「あ、ああ」と呟きながら、慌ててポケットに手を突っ込み、ごそごそと何かを探す振りをした。ポケットの中にはコンビニで受け取ったレシートがの中に小銭が数枚入っていて、指先に冷たかった。
「何を探しているの?」
ゴミと小銭を指先でまさぐりながら、「何って」。探すべきものなど何もない神田は絶句した。首を上げて少女の姿を見ることもできず、やがてポケットを探る動作をやめても、俯いたままだった。
「何も探してないよ」
ようやく口を開き顔を上げると、少女は神田のすぐ傍まで歩み寄っていた。驚く神田など構わぬ素振りで、少女はその右隣に腰掛けた。
少女の吐く息は白かった。睫毛が長く、頬も透き通るように青白かった。神田はその横顔をしばらく眺めて、美しいと思った。触れると、きっと冷たいのだろうと思った。思った自分に気づいた瞬間、慌てて目を逸らした。
「息を吐いて、白いから、面白かったんでしょう?」
横顔は笑っているのか、無表情なのか、目を向けることすら禁じられてしまったように顔を上げられない神田には分からなかったが、少女の声は少し楽しそうだった。ただ、声を聞くと、公園の街灯に一瞬照らされた長い睫毛を思い出してしまって、なぜだか動悸が激しくなった。
少女は、大きく息を吐いた。
神田は、かろうじてその白い息が冷たい冬の空気の中に溶け込んでいくのを見た。声帯をほとんど震わせずに子音を発音しているかのようなその吐息の音と、わずかに吐息の最後に漏れ聞こえたような湿った短い母音がすぐ横の少女から発せられているのを聞いて、神田の鼓動はますます激しくなった。
「煙みたい」
六〇歳になったばかりの男が、おそらく十代の少女に声も出ない。
この文章は、現実の話を元にしたフィクションです。
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コメント
ミスチルの批評やらで気になって、
色々見てたんですが、
このストーリーの続き気になる!!
表現方法が暖かくて素晴らしいです!
あ。下の書き込みは私です。
名前入れ忘れました。すみません。
「定年退職の日」(1)での、
>温かなコーヒーを胃の中に送り込む。
そして、今回の
>レシートの中に小銭が数枚入っていて、指先に冷たかった。
という描写に、うっとり酔いました。
こういう身体的な感覚って、自分でも、日常的に繰り返し体験していることなんですよね。それ自体は、ごくありふれた皮膚感覚だったり、感じる温度だったりする。
なのに、その肉体の感覚を、上の文のようにいったん言葉に置き換えて、それを再び味わうと、すごく新鮮な感じがするものなのですね。ドキドキしてしまいました。
もっと!もっと!まだなぁんにも見えてこない!…泣。
いったいどんな方向へ行くのですか?
少女の息の音の描写、思わず自分もやってみて確かめちゃった。
そしたら書いてあるとおりでびっくりしました。