観音の里、高月
2005年11月17日01:17
冬の湖は海よりも冷たくて暗い。強い北風が一陣撫でると、琵琶湖の水面は無数のさざ波を立てて風の足跡を残す。その波が消えぬ間に次の風が吹くから、ついぞ鏡のように静まりかえった湖面というものを見ることができない。
高月、とその名も風情あるこの町は、琵琶湖の北東にある。学生時代、私は井上靖の「星と祭」という小説を読んでこの町を訪れた。(シリーズ:思い出の町)
この小説には、湖畔に何十体も立ち佇むという十一面観音像が描かれている。琵琶湖でのボート事故で娘を亡くした父親が、その死という現実を乗り越えるために、滋賀県内に点在する観音像を拝んで廻るという物語だ。
新聞小説だけにやむを得ないが(昭和46年から「朝日新聞」に連載)、やや冗長な下りはあるし、整理されていない印象もを受ける。井上靖の小説の中では、それほど出来映えのよいものではない。それでも私が愛読していたのは、そこに主人公の印象として描かれる十数体の十一面観音の描写が、さすがは井上靖とも言うべか、外見の的確な観察を押さえながらも優れて印象的で、いつか実物を見たいと思わせてくれたからだ。
その願いが叶って、各駅停車を乗り継いで私は高月にやって来た。
琵琶湖の東岸、高月や木之本周辺を「観音の里」と呼ぶ人もいる。JR高月駅からバスや徒歩で行き着ける場所だけで、赤後(しゃくご)寺、渡岸(どうがん)寺、石道(しゃくどう)寺、鶏足(けいそく)寺などの古刹があり、十一面観音像が安置されている。江戸時代以前から観音信仰の篤い土地柄なのだ。
先に挙げたいくつかの寺のうち、ほとんどが無住、つまり住職不在の寺だ。観音像を拝もうと思えば、寺や観音堂にある立て札に書かれた番号に電話をかけるしかない。電話は、観音堂を管理する里人のところに繋がるから、そこで「観音様にお参りしたい」とお願いすれば、里人がやって来て厨子の鍵を開けてくれる。
周辺集落の住民は、交代で観音堂を管理している。だから行く日によって、観音堂の鍵を開けてくれる人は違う。
観音像は、素朴で、力強いものが多い。寄せ木造りが基本で、漆を塗り施したものもあるが、多くの像はそれが剥げて木目が露出している。
美術品として、もっと貴重で優れた仏像は別にもあるだろう。しかし、そんな国宝や重要文化財の多くは、宝物殿と称する味気ないビルに収められ、ガラス越しに見物するしかない。高月にある多くの十一面観音像は、村はずれの小さなお堂に安置され、厨子を開けば、私の目と鼻の先に立つ。美術品ではなく、住民の信仰の対象であり続けている。
美しい、と素直に思った。
仏像は多少普通の人より多く観てきたが、美術の素人であることには変わらない。何時代に造られたものなのか、誰が造ったものなのか、どのような製法で、持物は何なのかも私には判別できない。
ただ、美術品として一定以上の水準にある仏像の中で、これほどまでに仏像本来の姿をなおも留めているものは珍しい。地域の里人たちに静かに守られたその「あり様」自体が美しいし、この地方のいずれの観音像にも共通する柔和な眼差しが送られていた先に、この地の人たちの日々の苦しみや悲しみがあったことを思うと、どこか胸が苦しくなるような思いがする。その積み重ねられた「いま/ここ」に、色褪せて木目すら露出した全身で、変わらず何百年間も微笑み続けていたその姿に、信仰心のない私から出た言葉は「ありがたい」ではなく「美しい」だった。
美術品としても超一級の仏像もある。渡岸寺の廃寺にともなって現在は光源寺の管理下にある渡岸寺十一面観音像は、十一面それぞれの表情は豊かで、主面は気品に満ちている。少しくびれた腰と、垂れた天衣、解剖学的には細長すぎる腕が、それぞれ絶妙にバランスよく空間を占めているので、どの角度から見ても美しい。高月にある十一面観音で唯一の国宝だ。
高月の町の地勢を大きくとらえれば、西の端で琵琶湖に落ち、東は山々に遮られる田園風景が一面広がっている、と書けば足りる。東に並ぶ山々に一歩でも足を踏み入れれば、驚くほど山深い。小さな山の頂にある鶏足寺跡(廃寺)に向かって山歩きした折に、すれ違った地元の人から「夏だったら熊が出る」と教えてもらった。
高月に四日ほど滞在してゆっくりと観音像巡りを楽しんだ。その三日目、それまで曇天だった空が嘘のように晴れ渡った日の夜、満天の星の中、皎々と照る月が琵琶湖上空に上がるのを見た。地名のあらわす通りに凍るような寒空に高々と上がった月もまた、何百年も変わらずこの湖を照らしているに違いない。
観音を信じて守る人々のこころ、観音像、そして月。時代が変わっても、何百年も変わらないものに触れた私は、洗いさらした髪が夜風で冷えたのか闇夜に向けて一つくしゃみをした。
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コメント
>風林火山さん
地元の方からの書き込み、うれしいです。ありがとうございます。お知らせしたいことがありますので、別途、メールを差し上げますね
高月町で生まれ育って53年。地域のまちづくり情報を受発信しております。
今回、「観音の里高月」を拝読させていただきました。観音様との出会いの中で心動く様子が表現されていますが、地元の私どもでは、普段気が付かないような観点に感心をしております。
今後も機会がありましたら是非、高月町にお出で頂きますようお願い申し上げます。
>namukoさん
ぜひ、訪れてみてください。いいところですよ
行ってみたくなりました。高月