間に合わない校正
2005年12月07日22:44
古本屋でもないのに古書の匂いがする。いや古びた紙の匂いというよりも、むしろ日なたの匂いと言った方が正確かも知れない。私の背より高い本棚に、ぎっしりと並んでいる書物の背表紙をざっと眺めてみても何の脈絡も見あたらない。解剖学の専門書の横に岩波文庫があり、その横には怪獣大百科がある。本の高さもまちまちで、グラビアタレントの写真集などは無造作にいくつかの本の上に寝かせておいてある。
店内を薄暗いと感じるのは、蛍光灯がひとつ切れかかって点滅しているせいもあるかもしれないが、どちらかといえば真夏の日差しの中から高い本棚が並ぶ書店の中に足を踏み入れたばかりで目が慣れていないせいだろう。そう思って振り返ると、店の開き戸の向こうはほとんど真っ白に感じるほどに明るくまぶしい。と、また私はめしいのようになって、目を擦っては言うことを聞かない瞳孔を励まして本棚を眺め渡す。
「何かお探しですか」
縮れた白髪がほとんど残っていない頭部を撫でつけながら、男が本棚の陰から現れた。もちろん私は驚かない。この男に会いに来たのだから。襟元が汗で湿った灰色のシャツの上に、埃とか汚れとかいちいち説明するのも面倒なくらい汚れて、色あせた、元々は紺色だったと思われるエプロンをかけている。べっ甲のめがねが脂で光って瞳を見透せないが、それは脂のせいではなく眼鏡の度数が極端に強いせいかもしれない。
不潔だとは思ったが、髪を撫でつける指の太さを見たときに、やはり悪人ではないようだとなぜか思った。指の太さと善人か悪人かということに一体何の因果関係があるのかは説明しようがないが、私にとってはそれは強力な因果律で結びついていた。
「お探しではないのですか」
返事をしない私に質問を重ねる指の太い男に向かって私は、まるで映画か小説かのような返事をする。
「探しているのは、あなたですよ」
男はしばし沈黙する。訝かしんでいるのか、恐れているのか、驚いているのか、眼鏡で遮られて眼球が見えない私には分からない。
「そうか」
男はさほど訝かしんでも、恐れていても、驚いてもいなかったらしい。
「まあお茶でも飲んでいきなよ」
レジの周辺は、店の床よりも一段高くなっているが風呂屋の番頭席ほどは高くない。そこにレジと座布団が置かれていて、周囲には雑誌や筆記用具や鼻をかんだちり紙が乱雑に散らばっている。男は脇に置かれていた湯沸かしポットを手元に引き寄せ、「こぶ茶」と書かれた赤い缶から耳かきのような棒で緑色の粉を湯飲みに入れ、お湯を注いだ。いやお湯だなんて無責任に書いてしまったが、実際問題、湯気なんてものは立っていなかったし、それを指の太い男は一気に飲み干してしまったのだからそれがお湯だったかどうかは甚だ疑わしい。いずれにせよはっきりしていることは、お茶を飲んでいけと言ったのにも関わらず指の太い男は私にお茶を勧めようとはしないし、男は座布団に座ったが私はその傍らに立ったままでいるということだ。もちろん指の太い男に悪意がないことは私にもよく分かった。なぜならば、レジの置かれたその小さなスペースは座布団を一個と本やポットや歯磨きセットや目覚まし時計でもう一杯になっていたからだ。むしろ、座ってくださいと言われれば困惑したのは私の方だろう。
座れもしないしお茶も飲めないとはっきりした以上、私がこのままここでいたずらに時間を費やす意味はない。単刀直入に切りだそう。指の太い男は、背中をこちらに向けてなにやら作業を始めたので、私はその臀部に向かって声をかけねばならなかった。
「最近は何をしてお過ごしですか」
ぴくっ、と背中が小さく跳ねた。しばらくじっとそのまま動かず、その後おもむろに振り向くと、指の太い男は表情をほとんど変えずに雑誌と赤ペンを私に差し出した。
「これだよ」
私に背中いやむしろ臀部を向けて夢中でしていた作業は、その雑誌と赤ペンに関係するらしい。私は雑誌と赤ペンよりも、間近に見た指の太い男の無精髭に白髪が多いことと、たばこを吸うのか歯がヤニで黄色く染まっていることの方に気が向いたのでしばらくじっと指の太い男の顔を眺めていたが、脂で光る眼鏡をかけた指の太い男の顎が何度か上がるのに気づいて、手に渡された雑誌と赤ペンに目を落とした。
指の太い男が顎を上げる動作を続けるのは、おそらくそれを見てみろという意味だろう。私はその動作に素直に従って雑誌を開いた。それは芸能人の下世話なスキャンダルを売り物にする写真週刊誌だった。ぱらぱらとめくると、どのページにも赤ペンで書き込みがなされている。あるページには、記事の文章の一部が赤線で消されていて、そこに「トルツメ」と書かれている。「これが最後の晩餐にならないことをお祈りしたい」と結ばれている原稿の「お祈りしたい」の部分が赤線で消されていて、その傍らに「祈るばかりだ」と赤ペンで書き込まれている。
私は指の太い男の〈仕事〉を理解した。
指の太い男は、すでに発行されてしまった雑誌に「赤入れ」をしていた。気に入らない箇所や誤りを見つけては、せっせと赤ペンで校正していた。しかしそれは発行済みの雑誌であり、今更どれだけ丁寧に直してももう間に合わない。間に合わないということは、しかし指の太い男にとっておそらく何の意味もなく、その作業をやめる理由にはならないのだろう。
私は雑誌と赤ペンを指の太い男に返すと、振り返って店の中をもう一度見渡してみた。手に取ることこそしなかったが、そこに並んでいる膨大な書物のすべてに、指の太い男が校正した赤文字が書き込まれているに違いないと私は確信した。
背後で雑誌のページをめくる音がまた聞こえる。指の太い男が〈仕事〉を再開したに違いなく、これ以上ここにいてもその作業を邪魔するだけだと悟った私は、また本棚聳える向こう、夏の真っ白な日差しに向かって歩き出した。
瞳孔が閉じるのを感じる。
トラックバック
trackbackURL:








コメント
面白い
不思議な世界観だったので、あれ、これは夢の話なのかな?と思って読み進めましたが、やはりそうでしたか。情景が目に浮かぶような描写力、世界観を演出する力はさすがの一言ですね。おもしろかったです。
>smile
続きません。
ていうかこれ夢を脚色したものです。読んだばかりの「はてしない物語」の冒頭(コレンダーさんの古本屋さん)とか読み中の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の世界観に影響を受けつつ、現実に校了が迫っているという強迫観念がモロに夢になった感じ?(笑
つづく…?