セーラー万年筆
2006年05月28日01:34
「なんじゃ、これは」。久五郎は思わず呻いた。紙の上を面白いようにペンが走る。
「ファウンテンペンというもんじゃ。珍しかろう」
万年筆、と今日では呼ばれている。明治末期、殆どの日本人がインクを都度付けずに文字が書けるというそのペンについて想像もできない時代である。久五郎は書き心地にほとんど陶酔した。筆圧を強めても文字が潰れることがないから、毛髪よりも速記に向いている。
「これはすごい。これは効率がいいです」
久五郎がペンを離そうとしないのを笑って眺めながら、洋行帰りの長三郎は肩を叩く。「一事が万事じゃ。何事も理屈に合っていて、進むのが早い。見習うところばかりじゃったが、いやいささか疲れたぞ」
海軍技師の白髪長三郎が英国から土産として持って帰って来た一本の万年筆が、同じく海軍に属して工廠(軍営工場)に勤め、ゆくゆくはその技術を生かして兄が経営する工場を手伝って一生を終えていたかもしれない久五郎の運命を大きく変えた。
久五郎は岡山県後月郡出部村出身と記録にある。調べてみると後月郡という地名は戦前には消えており、いまは井原市と名を変えている。行政区分では岡山県に属するが、文化や生活は今も昔も福山(広島県)に近い。久五郎がこのまちを捨てて、呉に出たのは明治40年代のことだった。
「呉に出る」という言葉が持つ意味と響きを、今日の私たちが推測するのは難しい。
当時の呉を一言であらわせば、日本一の工業技術都市、ということになるだろう。特に重工業分野の技術が、この瀬戸内海の入り江にすり鉢を成す呉という町に集積していた。久五郎もまた、その技術を身につけるために呉に出た。
しかし、自分を虜にした「あの万年筆」を、自分の手で作ってみたい--その思いが日に日に強まり、久五郎はついに工廠を辞め、兄の働く工場で万年筆を見よう見まねで試作し始めた。言い出したら他人が何と言っても聞かず、何夜でも徹して根を詰める性格だったという。
明治44(1991)年、完成した万年筆を製造するために、久五郎は呉市浜田町に阪田製作所を起こした。これがのちのセーラー万年筆である。戦後も久五郎は筆記具の改良、開発に力を注ぎ続け、セーラー万年筆社はカートリッジ式万年筆やボールペンなどを世界に先駆けて生み出した。
セーラー万年筆がその商標に「セーラー(水兵)」を採用した理由について、久五郎の没後に編まれた『故阪田久五郎翁略伝』は次のように説明している。
「軍港都市呉にあり、将来は自らの製品を船によって輸出し、海外に覇を唱えたいという念願と、ひとりの提督より多くの『水兵』が大切だという民主主義的思想を盛り込んで商標をセーラーと命名し、錨に水兵が跨っている図柄を作った」
英国生まれの一本の万年筆が、今も続く文具メーカーを生んだ。このエピソードから分かることが二つある。一つは、呉という土地が、工廠が置かれ、洋行帰りの海軍士官や技官が町に多くいたことで、明治期にはすでに最新の舶来物が往来するモダンな都市に変貌しつつあったこと。もう一つは、その都市に職や技術を求めて、人やカネが集まり始めていたということだ。
普段慣れ親しんでいた「セーラー万年筆」という社名にあるセーラー(水兵)が、久五郎が毎日目にしたに違いない、呉に入港する軍艦たちに乗る水兵のことだったということを知る人は少ない。戦後、軍国主義を煽ることが禁じられ、同社は図案の意匠を変えざるを得なかった。今は「錨に水兵が跨っている図柄」を見ることはできない。
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